「身体感覚と記憶」がゲシュタルトのワークでどのように扱われるのかを4週にわたって解説しています。
  第1回~冒険の旅~
  第2回~ワークのアプローチ~
  第3回~ゲシュタルトの理論<未解決な問題>~
最終回の今回は、クライアントの「未解決な問題」を見つけるファシリテーターのプロセスについて説明します。

~第4回:ファシリテーターのプロセス~

1つ目のプロセス
<視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚を使ってクライアントを観察して、コンタクトする>

彼女は胃の検査をしている場面で不安を持っていることが分かりました。ファシリテーターはそこに焦点を当てたのです。

その場面について彼女が話し始めると感情がこみ上げてくるのが見えました。<視覚>
彼女の顔が赤味をおび始め、瞼のあたりが潤むのが観察できました。<色彩>
彼女の熱が<波動>のように伝わってきました。<触覚>
そして声のトーンが微妙に変化して、<聴覚>
まるで子供の<泣き声>のように聞こえて来ます。<聴覚>
時には胃液の匂いがしたりすることもあります。<嗅覚>

このようにして自分の感覚機能や身体内の体感覚などを総動員して「何かが起きていること」を察知するのです。察知するためにはファシリテーターが自然体で<コンタクト>している必要があります。

2つ目のプロセス
<<異次元>に移動する瞬間を捕まえる、あるいはプロセスを共有する>

当人が「胃の画像」を注視しているときに、「今-ここ」の現時点から離れて、
何かを想い出すかのような「世界」に入って行ったのが、私には見え(感じられ)ました。

人はしばしば過去の辛い体験を呼び起こす時に、
ある種の自己催眠をかけることがあります。
もちろん本人は意識していません。
それどころか、その過去の<記憶>から脱出しようともがいているのです。

世界的な催眠療法家のミルトン・エリクソン(Milton H.Erickson,M.D)は『ミルトン・エリクソンの催眠テクニック2【知覚パターン編】』(ジョン・グリンダー,ジュディス・ディロージャ,リチャード・バンドラー著 春秋社)で、次のように述べています。

幸せな記憶を語るとき、当人は幸せを感じているし、語る様子や声も幸せそうである。怖い体験を語るときは、恐怖を感じているし、語る様子や声もいかにも怯えている。格別に美味しい食事のことを語るときは、それを味わっている。洞察力の鋭い人なら、その人の口や舌の動きまで察知できるだろう。(P93)

観察力の鋭いゲシュタルト・セラピストなら同じように、
クライアントが過去の記憶を呼び覚ましていく<プロセス>を
感知することが可能なのです。

私たちは過去の楽しい体験を語っているとき、
哀しい体験を語っているとき、
自分の過去の体験を追体験していることになります。
私たちは過去の世界に容易にタイムトリップするのです。

その追体験に入っていく<異次元>プロセスをファシリテーターは知ることが出来るのでしょうか。それはクライアントの話している言葉だけでなく、非言語体系のメッセージを観察すること、そしてファシリテーターが気づきの3つの領域に意識を向け続けることで可能になります。
さらにゲシュタルト療法の「場の理論(Field Theory)」を学んでいれば、互いに創り上げている場(Field)を感知することが出来るようになります。

3つ目のプロセス
<図/地 (Figure/Ground)の入れ替わるプロセスを共有する>

当人は辛い記憶を語っているのですがそのことを意識していません。

ゲシュタルトの図/地(Figure/Ground)の概念で説明すると、
当人が触れている過去の記憶の「世界」はになっています。

ところが身体感覚はすでに記憶を呼び起こしているわけですから、
身体感覚のレベルでは「未解決な問題」がに上がっているといえます。

ゲシュタルト療法で当人が身体表現している「不安さ」や「自信のなさ」、顔の「表情」や「声の質」の<変化>に焦点をあてるのは図/地が入れ替わる瞬間であるからなのです。

その時にその<プロセス>を共有するために<気づき>の問いかけをします

「今、あなたの表情が何かを伝えているようですが、どのようなことですか」
「あなたの瞳が潤んだことに気づいていますか」
「今、あなたにどんなことが起きてきていますか」

このようにして、(地として存在している)記憶を当人の意識(図になる)に上らせるプロセスを共有することが、ファシリテーターの役割といえます。

4つ目のプロセス
<未完了な体験を完了させる>

当然のことながら子供のとき出来なかった「自己主張」と「認めてもらいたい」という気持ちをエンプティチェアで表現することになります。
エンプティチェアに母親を座らせて表現する。あるいはファシリテーターに向かって当人の気持ちを表現する方法でも良いと思います。
大切なことは未完了な気持ちを当人が「からだ」で充分に感じて、それを表現するというプロセスです。言葉と身体が一体となった表現を見守ることが大切です。